神と仏


 私達日本人は、何かを一心に祈るときに、ふと『神様、仏様』と口について出たり、家には神棚と仏壇が同じ空間に存在したり、この世に生まれ出て初宮詣では神社で、お葬式はお寺でというように、神様と仏様を何の不思議もなく受け入れているように見えます。

 また、旅先で参拝した神社の由緒記に『八幡大菩薩』や『熊野権現』などの名が見えたり、神社の創建者が僧侶であったりと、神と仏の間には深い関係があるようです。しかし、一般の人たちにとって、神様と仏様が過去にどんな関係を持っていたのか知る人は少ないのではないでしょうか。


神仏習合

 
神道は古来からの日本の宗教ですが、初めから神道という言葉があったわけではなく、文献にその名が最初にあらわれるのは日本書紀であり,儒教や仏教が伝来したために、それと区別する必要から神道という名称を唱えるようになりました。仏教は538年に百済の聖明王が欽明天皇に仏像等を献上したことが日本への伝来の初めといわれています。

 その後、用命天皇が仏教崇拝の是非をはかったところ、崇仏派と廃仏派との対立が起こり、政権争いへと発展し、崇仏派が勝利したことから、仏教は国教化する事となり、隆盛の一途をたどりました。

 一度は大きく対立した神道と仏教ですが、次第に仏教が神道に歩み寄るようになり、神道に融合していきます。天武天皇(673〜686)は、雨乞いの時には神と仏の両方に祈らせました。そして神と仏を区別せずに同じ場所に祀るようになります。やがて神仏習合(神と仏の結合)を見ることになりました。すなわち、神社と寺院が付随して建てられるようになったのです(神宮寺)。神仏習合は奈良時代になるとかなり進み、各地の大社に続々と神宮寺が建立されました。後には僧侶が神社の管理をして、神官は僧侶の支配下に置かれ、主従が逆転し、神が仏から菩薩号を受けると言う事態にまで進んでいきました。菩薩号を受けたのは宇佐八幡が最初とされ、平安時代には神前読経も行われました。

 

本地垂迹説

 平安時代中期になると神仏習合は更に進展し、神の名に「菩薩」や、仏は神に化身して姿を現しているという「権現」号が付けられるようになります。そしてこの思想は、日本の神々は元を正せば仏が人々を救うために仮の姿で現れたという『本地垂迹説』に成立し、この説では天照大神の本来の姿は大日如来、八幡大神は観世音菩薩というように説明されました。

  この考えは神社の建築様式にまで浸透し、寺院様式の流造り・日吉造り・八幡造り・権現造りが確立されました。(ちなみに赤羽八幡神社は権現造りです)更に鎌倉時代には、この本時垂迹説を元にして仏教の中から両部神道や山王一実神道などの神説が唱えられるようになりました。

 

江戸時代

 江戸時代になると、国学者達が過去1000年以上にわたり、神仏が習合してきたことに疑問を持ちはじめました。これまで学問的にも技術的にも仏教に比べて影が薄くなっていた神道を、古語や古典を研究することによって宗教的に体系化しようとしました。これは復古神道と呼ばれ、国学の尊さに目覚めて廃仏思想と尊王の機運が高まり、時代はついに徳川幕府の崩壊、明治維新を迎えていきます 

 明治維新の目的は王政復古であり、敬神崇祖・祭政一致の精神は新政府の政策にも表れ、ついに慶応4年(1868)に神仏分離令が布告され,ここに1300年以上続いた神仏習合は終わりを迎えたのです。

 




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