八幡様の御祭神・年中行事・御神徳・由緒記

御祭神と年中行事

御祭神
品陀和気命 応神天皇 十五代天皇 (主神)
ほんだわけのみこと
帯中津日子命 仲哀天皇 十四代天皇 (応神天皇の父)
たらしなかつひこのみこと
息長帯比売命 神功皇后 (応神天皇の母)
おきながたらしひめのみこと

年中神事
歳旦祭 1月1日
祈年祭 2月15日
例大祭 9月15日
七五三祝祭 11月15日
新嘗祭 11月28日
大 祓 夏越し 6月30日
大 祓 年越し 12月25日




八幡様の御神徳

八幡さまは、お稲荷さんに次いで広く信仰されている神様です。
総本社は大分県の宇佐神宮で、鎌倉時代には鎌倉の鶴岡八幡宮が源氏の氏神として武士達の崇敬をあつめ、武家の守護神、国家鎮護の神としての信仰は、その後室町、江戸時代へと続きました。
赤羽八幡神社は、平安時代(桓武天皇の御代)にこの台地に勧請された古社で、現在の社殿は昭和6年に建設され、昭和63年に一部改築されたものです。御神徳は勝運守護、厄除・方位除、交通安全、家内安全など多方面にわたり、私達をお守りくださっています。

源家一族の庇護のころから『八幡神社』は武運の神として有名だが、当社も勝負ごとの祈願に訪れる人が多い。ギャンブルに関することもあるが、最近では転じて受験運の加護を求めてくる参詣者が増えてきている。また古来交通の要所であり、太古には台地の裏手に船着き場があったと研究される中で、交通安全の神として関連会社から祈願に訪れることも多い。



由緒記

延暦三年(1200年前)、朝廷より奥州鎮圧を命ぜられた坂上田村麿呂(さかのうえのたむらまろ)が、此の地に陣を張って上の三神を勧請して武運長久を祈願したことにより創建されたと伝承されています。その後、源頼光 頼政 太田道潅一族らの再興修造があり、1552年太田新六郎康資の「八幡禰宜 朝日輿五右衛門殿」宛の寄進状が伝えられています。江戸時代には、赤羽根村 下村 袋村 稲付村 岩淵郷の総鎮守とされました。
時代時代の国策に翻弄され続けた神社
明治16年に上野熊谷間の鉄道敷設によって宝幢院とつながっていた敷地を分断された。
明治20年、陸軍工兵大隊の大手町からの移駐先に社殿の後背地を管轄していた東京府から差し出されて供出。
明治41年稲付に出来た兵器補給廠と東北本線との武器輸送のために現参道に軍用鉄道敷設。
大正には東北上越方面との物資輸送増大で旧参道部分に赤羽貨物駅設置。
戦後になって昭和60年東北新幹線と埼京線敷設のため、こんどはお山の腹にトンネル貫通。
かつて徳川家の庇護や加増もあって、明治の初年ころには四千坪を有する雄社であったが、このように時代ごとの国策の影響をかむって身を削られ続けてきた神社である。これも太古、地の利をもって坂上田村麿が東北地方鎮圧のための拠点と定めた時からの宿命なのか。現在も、時代遅れでとうに建設不要とみられる都道85号線道路計画にまた参道と階段が計画線上に掛り、神社は苦慮している最中である。

赤羽と八幡神社周辺の近代前の地形



古峰神社

明治36年に赤羽に大火が起こった。6月4日昼すぎ、線路ぎわの袋村の民家の藁屋根に汽車の吐く火の粉が乗り移り、その火の手は折からの強風に煽られてたちまちのうちに岩淵から赤羽方面に広がった。町役場や火の見やぐらを焼き、当時唯一の繁華街だった本町通りのひしめく街並みや新築後わずか半年の赤羽小学校を焼き尽くし、線路の東側を総なめにして現西口広場あたりまで達した。被害家屋は全焼200戸以上、焼け出された犠牲者の数は400名を超えて、赤羽のほぼ4分の3を焼失した。
それをきっかけに赤羽町民のあいだに、栃木県の火防せの神である古峰神社にお参りする講をつくる機運が生れた。やがて氏子の賛同によって八幡神社が古峰神社を上社と仰ぐかたちをとり、毎年6月に大挙して参詣に出かける古峰神社講が始まった。犠牲者の鎮魂と町の安寧を祈願するこの講は現在も『古峰神社赤羽代参講』として連綿として続いている。毎年5月の新緑の季節にバスを仕立てて行く一泊旅行は氏子たちの楽しみでもある。

赤羽招魂社招魂祭風景

かつて神社の裏手に兵営があった陸軍工兵隊の戦没者と赤羽出身の戦没者を慰霊する社が境内にある。戦前八幡神社は武の神として第一、近衛両工兵隊の兵隊たちの尊崇が篤かった。戦後になって工一会(工兵第一大隊による)という戦友会が生まれ、八幡神社において戦死者を慰霊する、赤羽の遺族も加わった赤羽招魂社奉賛会が結成された。毎年4月29日昭和の天皇誕生日に200名を超えるかつての戦友の集まりによって盛大に慰霊祭が執り行われてきたが、工一会会員の加齢によって平成11年やむなく幕を閉じた。以後は神社宮司に託されて毎年慰霊祭が続けられている。 『赤羽招魂社』、別社格として境内にある。

招魂祭風景




昭和6年に改修なる前の明治期の八幡神社
双獅子は移基されて今も残る

以下、昭和七年に東京府北豊島郡岩淵町から出された八幡神社の由緒書より
(武藤與四郎著「北区誌」所収より要旨抜粋及び現代語表記)
昭和6年に社殿改築した際に記したもののようである。
当時の岩淵町とは赤羽岩淵袋下神谷稲付浮間の連合町、また町制は神社をも経営していた。
当社は岩淵町大字赤羽の丘陵台地にある。近くには荒川の清流が西北部より迂回しており、関東平野の中部を一望のもとに収めて、東に筑波、西に白根の連山を望む景勝の地を占めている。当社の創建については文献として残っているものはないが、このような景勝地でありまた要害に適した地であることからして、古来より伝承されて来られたように、延暦年中(782〜)坂上田村麿将軍が東夷征伐の折にこの台地を選んで陣を張り、ここに八幡三神を勧請して武運長久を祈願した、ということは想像に難くない。

昔からこの台地を八幡原と称し、谷地を八幡谷津と呼んでいたのはこれに起因する。老人たちの口伝によれば、陸軍第一工兵大隊が移駐してくるまではいまの後背地(現星美学園)の大部分が社領であったとか。山内に七ヶ所の穴があったと伝えられていたが、明治38年に旧社殿を修築したときに殿の下に地表が陥没しているのが発見された。口径三尺深さ一丈、さらに横穴広さ二坪で立って歩けるほどの高さのものであった。各新聞で報じられ東京帝国大学で鑑定した結果古墳であることが判り、埋土品土器鉄片などが発掘された。ほかにも陥没箇所はいくつか現存しており、古来、古社といわれる神社には古墳があることが多く、その点でも当社の古さを窺い知ることができる。

以下、当社に存する嘉永戊三年(1850)に記された文書による。
一条天皇代長徳年間(995〜)源頼光が社領を寄進、これによって再興。
久寿年間(1154〜)源頼政が立願の事があって神地を奉献するとともに社殿を修造。
やがて周辺台地が太田氏一族の知行地となり、代々当社への信仰浅からずと伝えられるなか、
応永正長年間(1394〜)太田資清が社領を寄進。
文明元年(1469)太田持資(道灌)が格別の尊信にして社殿を再建して寄進。
天文20年(1551)太田新六郎康資は当社再興の願主として永銭壱貫文の地を寄付。
この事については寄進状が現存する。

岩淵之内赤場根八幡領之事
合壹貫文の所者
右為社領如前々闕の候、且々私之修理おも加可申候、
萬一自分を為本無沙汰に付
而は可放取者也、仍而如件
天文弐拾年辛亥十二月二十八日 太田新六郎康資 華押
八幡 禰祇 朝日與五右衛門殿


しかしながら永禄7年正月(1564)太田氏は北条氏を打つべく里見氏に組したが、鴻ノ台の戦いに敗れ、康資は千葉に敗走。当社の禰祇は太田氏の家臣と判断されて社領を召上げられ、さらには多くの貴重な神宝や旧記古文書類を焼失散逸してしまった。

慶安元子年四月(1648)江戸時代。場所が日光街道添いということで、大献殿?日光社参のみぎり当社を参詣、来歴を詳しく尋ねた上翌年には社領七石の寄付を受けた。以後当憲院殿から招徳院殿に至るまで御朱印写シあるいは目録にあるように社領寄付が続けられた。

元文元丙辰年八月十五日(1736)太田備中守資時が灯篭一対を寄進。

そののち明治に入って、これらの御朱印状類は明治2年小菅県令に提出を求められたまま戻ってこない。だが日光街道より当社参道に入る地点に立てられていた高さ四尺の石標(今は参道脇に移転)を見れば当社が将軍家御成道における名社の一つであったことは疑いない。その石標には、「八幡宮是ヨリ左ヘ一丁、天保十一年巳三月再建」とあり天保年間(1830〜)上意によって再建されたものと知れる。
当時の神主朝日内蔵頭重正の実記によれば「三年目御年礼之節□□献上於大広間御目見被仰付御礼申上候、着服者風折烏帽子狩衣ニ而登城仕候。支配者寺社御奉行所直支配。触頭者吉田殿御内鈴鹿出羽守」とある。すなわち文政十亥年(1828)正月六日、三年目お礼登城の際に御朱印下賜と山林竹木諸役免許を授かったお礼として御□壱基将軍家に献上したと記されている。更に別の記述によると、これらの事実は「先規ノ通リ」ということであり、この登城と献上は将軍就任ごとの慣例であったことが分かる。これによっても徳川時代には当社の格式が相当であったことが知れる。

永きに亘って当社が近郷五カ村の総鎮守として人々の敬信を集めてきたことは承知の通りだが、このことは【新編武蔵風土記稿】に記載されている。
また天保十年八月十五日当社の例祭日に、酒井雅楽頭から弓術大会を催した折に使用した的額の奉納を受けたことでも、近在の人々のみならず江戸武士のあいだにも崇敬が深かったことを物語る。この巨大な奉納的額には寄せ書きがなされており、その中に島田虎之助の名がみえる。この人物は新撰組の剣客として知られ、勝海舟の剣術指南でもあった。

明治となり、明治5年11月19日政令によって当社は赤羽一村のみの村社と定められた。かつては上記の風土記稿に記載がある通り赤羽をはじめ稲付、下、袋、本宿(岩淵)の総鎮守であった。このことが更に確証できたのは、今回(昭和6年)本社を修理した際に、脇障子上押縁材の裏面に「八幡宮修造五ケ村惣氏子」との文字が発見されたことによる。

本社は、天文20年(1551)太田新六郎康資が再興の願主として五ケ村の総力を持って修造を遂げたが、遺憾ながら残された寄進状には修造年月日が記されている形跡があるものの、墨痕が消滅して判読ができない。
建物の構造は簡素純朴でいたづらな粉飾は少ないが、明治末年以来東京帝大の建築科の好資料となるなど、建築学上見るべきものがある。また所蔵の宝物は学術調査に具されたことが多く、なかでも獅子頭については民俗学の権威によって研究発表されたことがある。

かくして明治20年までは3800坪を有する森厳なる神域を誇っていた当社だが、その後陸軍省ならびに鉄道省に2300坪を供出した結果、老杉古松鬱蒼として昼なお暗きまでに繁茂した往昔の神の森の態を失ってしまった。また関東大震災には拝殿が倒壊するなど、失うところ多い時代が続いた。にもかかわらず氏子たちの熱心な崇敬は植樹や境内の整理などを怠らず、とりわけ(今回の)社殿復興は大きな協力を持ってなされ、新たに崇厳な威容を取り戻して参詣者の絶えない毎日である。
以上 昭和七年四月

証明書□□ヨル

東京府北豊島郡岩淵町大字赤羽728番地 村社 八幡神社
一、境内坪数 壱千参百八拾九坪六六(別紙境内測量図)
氏子戸数証明書
一、弐千参百八拾六戸 右神社氏名戸数

昭和七年四月二十六日
東京府北豊島郡岩淵町町長 沼野佐次郎 印


北区赤羽台4-1-6 JR線赤羽駅徒歩3分 営団南北線赤羽岩淵駅徒歩3分

http://www.netcity.kita.tokyo.jp/navi/060.html




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