御祭神と年中行事
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八幡様の御神徳
八幡さまは、お稲荷さんに次いで広く信仰されている神様です。
総本社は大分県の宇佐神宮で、鎌倉時代には鎌倉の鶴岡八幡宮が源氏の氏神として武士達の崇敬をあつめ、武家の守護神、国家鎮護の神としての信仰は、その後室町、江戸時代へと続きました。
赤羽八幡神社は、平安時代(桓武天皇の御代)にこの台地に勧請された古社で、現在の社殿は昭和6年に建設され、昭和63年に一部改築されたものです。御神徳は勝運守護、厄除・方位除、交通安全、家内安全など多方面にわたり、私達をお守りくださっています。
源家一族の庇護のころから『八幡神社』は武運の神として有名だが、当社も勝負ごとの祈願に訪れる人が多い。ギャンブルに関することもあるが、最近では転じて受験運の加護を求めてくる参詣者が増えてきている。また古来交通の要所であり、太古には台地の裏手に船着き場があったと研究される中で、交通安全の神として関連会社から祈願に訪れることも多い。
由緒記
延暦三年(1200年前)、朝廷より奥州鎮圧を命ぜられた坂上田村麿呂(さかのうえのたむらまろ)が、此の地に陣を張って上の三神を勧請して武運長久を祈願したことにより創建されたと伝承されています。その後、源頼光 頼政 太田道潅一族らの再興修造があり、1552年太田新六郎康資の「八幡禰宜 朝日輿五右衛門殿」宛の寄進状が伝えられています。江戸時代には、赤羽根村 下村 袋村 稲付村 岩淵郷の総鎮守とされました。
時代時代の国策に翻弄され続けた神社
明治16年に上野熊谷間の鉄道敷設によって宝幢院とつながっていた敷地を分断された。
明治20年、陸軍工兵大隊の大手町からの移駐先に社殿の後背地を管轄していた東京府から差し出されて供出。
明治41年稲付に出来た兵器補給廠と東北本線との武器輸送のために現参道に軍用鉄道敷設。
大正には東北上越方面との物資輸送増大で旧参道部分に赤羽貨物駅設置。
戦後になって昭和60年東北新幹線と埼京線敷設のため、こんどはお山の腹にトンネル貫通。
かつて徳川家の庇護や加増もあって、明治の初年ころには四千坪を有する雄社であったが、このように時代ごとの国策の影響をかむって身を削られ続けてきた神社である。これも太古、地の利をもって坂上田村麿が東北地方鎮圧のための拠点と定めた時からの宿命なのか。現在も、時代遅れでとうに建設不要とみられる都道85号線道路計画にまた参道と階段が計画線上に掛り、神社は苦慮している最中である。
古峰神社 明治36年に赤羽に大火が起こった。6月4日昼すぎ、線路ぎわの袋村の民家の藁屋根に汽車の吐く火の粉が乗り移り、その火の手は折からの強風に煽られてたちまちのうちに岩淵から赤羽方面に広がった。町役場や火の見やぐらを焼き、当時唯一の繁華街だった本町通りのひしめく街並みや新築後わずか半年の赤羽小学校を焼き尽くし、線路の東側を総なめにして現西口広場あたりまで達した。被害家屋は全焼200戸以上、焼け出された犠牲者の数は400名を超えて、赤羽のほぼ4分の3を焼失した。 |
赤羽招魂社 かつて神社の裏手に兵営があった陸軍工兵隊の戦没者と赤羽出身の戦没者を慰霊する社が境内にある。戦前八幡神社は武の神として第一、近衛両工兵隊の兵隊たちの尊崇が篤かった。戦後になって工一会(工兵第一大隊による)という戦友会が生まれ、八幡神社において戦死者を慰霊する、赤羽の遺族も加わった赤羽招魂社奉賛会が結成された。毎年4月29日昭和の天皇誕生日に200名を超えるかつての戦友の集まりによって盛大に慰霊祭が執り行われてきたが、工一会会員の加齢によって平成11年やむなく幕を閉じた。以後は神社宮司に託されて毎年慰霊祭が続けられている。
『赤羽招魂社』、別社格として境内にある。 |
昭和6年に改修なる前の明治期の八幡神社
双獅子は移基されて今も残る
以下、昭和七年に東京府北豊島郡岩淵町から出された八幡神社の由緒書より | |||
(武藤與四郎著「北区誌」所収より要旨抜粋及び現代語表記) 昭和6年に社殿改築した際に記したもののようである。 当時の岩淵町とは赤羽岩淵袋下神谷稲付浮間の連合町、また町制は神社をも経営していた。 |
北区赤羽台4-1-6 JR線赤羽駅徒歩3分 営団南北線赤羽岩淵駅徒歩3分
http://www.netcity.kita.tokyo.jp/navi/060.html